【贖いの背】

「学問を始めたらあたしを見捨ててしまうと思ったんだよ。」
レジーナは疲れた様子で額を片手でおさえた。テーブルに置かれた蝋燭の明かりが照らし出す顔は殊更に老け込んで見えた。
「女だてらに学問をしていた母親の血を継いだんだろうねえ…。戦争ごっこよりも本にひどく興味を示してたよ。まるで、小さい頃のヴァルターみたいにね。
あたしにも一人娘が居てね。もう結婚して出て行っちまった。だから別れには慣れてるつもりだったけど。やっぱり手放すのは寂しいもんだ。」
ディーターはカウンターの席へ腰掛け、隣に座るレジーナの話を聞いていた。レジーナが座っている場所はヴァルターのお決まりの席だった。
「惚れた男とだぶって見えれば尚更だな。」
何気ないディーターの言葉にレジーナは一瞬驚くが否定しなかった。
「知ってたのかい。」
「様子を見ていれば嫌でもわかる。」
ディーターは当然のように言ってのけ更に続けた。
「あんたならヴァルターの目を覚まさせられただろうにな。」
「よしとくれ。」
ディーターの言葉にレジーナは目を閉じて俯いた。
「ヴァルターはとうとう亡霊に縛られたままだった。」
「ヘルガは人を呪ったりする女じゃないよ!」
レジーナは思わず叫んでしまう。あんなに献身的な良い妻が、たとえ浮かばれぬ霊になったとしても夫を呪うだなんて考えられない。
「ヴァルター自身が囚われていた、という意味だ。」
ディーターは相変わらず動じる風もなく言って目を閉じた。

レジーナはゆっくりと腰を上げた。薄明かりに照らされた宿屋をぐるりと見渡す。数日前まで居た人間はもう居ない。憎まれ口をきく人間でも余所者でも誰でもいいから居て欲しいと思った。思わずアルビンを引っ叩いてしまった日があまりにも遠い。そして幼い頃からの友ももはや居ない。
教会の教えがあった。ヴァルターの左手には誓いの証がかたくはめられていた。惨劇がヴァルターの妻への思いを更に強めていた。だからずっと、言い出せなかったのだ。
嫌われても良かった。ふしだらな女だと思われても良かった。たとえ禁じられた思いでもヴァルターに一言伝えたかった。こんなにも早く、突然に逝ってしまうと解っていたのなら。
いや、何れ逝ってしまうのは解っていた。けれどその真実を見ようとしなかった。まだ生きている。この生命が永遠に続くと思い込みたかった。
考えながら、レジーナの瞳からは何時しか涙が伝っていた。

「さあ、とっとと喰っとくれ。あたしゃ待たされるのが嫌いでね。」
手の甲でぐいっと涙を拭い、レジーナはディーターに向き直った。
「さすがは恵み深き神の母。か。」
ディーターは思わず笑いながら立ち上がる。
「そりゃまた結構な二つ名だね。」
「神父がよく言っていた。レジーナさんは名前のとおりの方だ、とな。」
「ああ。なるほどね。」
レジーナは苦笑しながらふとあることに気づいた。
「何か言っておきたい事は。」
「無いよ。けど強いて言うなら。」
レジーナは両手を腰に当ててディーターを見る。まるで子どもを窘める母親のように。

「いい加減神父さんの名前を呼んでおやり。」
あたしのようになりたか無いだろ。そう言ってレジーナは意地悪く笑ってみせた。



風が木々をわたる。墓地の枯れ木に絡む風は物悲しい声でないた。まるで村の滅びを嘆く死者のうめきのように。森の獣の気配は消え、街道を塞いでいた岩は綺麗に無くなっていた。十字路脇の木にかけられた荒縄が虚しく風に揺れている。ヨアヒムは結わえられた輪をぼんやりと見つめて佇んでいた。
「逃げないのか。」
ふいに後ろから聞こえた声に振り返る。教会の壁に背をもたせているディーターの姿が目に止まる。その脇に隠れるように立ちすくんでいるジムゾンの姿。そして丁度真後ろに立っているのは占い師を騙っていたニコラス。
「村を破滅に追い込んだのは僕だ。制裁は潔く受ける。」
ヨアヒムは険しい顔で答えた。
「あなただけの責任ではありません。村の滅びは必然だった。」
「それでも一人で生き恥を晒す事はできない。僕は。」
ニコラスの慰めの言葉を遮るようにヨアヒムが言った。辛そうに顔を歪め、吐き捨てるように呟く。
「平気で人を騙すような卑怯な君たちとは違う。」

ヨアヒムの言葉にジムゾンは俯いてしまう。漸く忘れかけていた罪の意識が再び首をもたげていた。
「そのようにさせられてしまったのです。」
ニコラスは穏やかな笑みを浮かべたままで言った。帽子を脱いでヨアヒムを見つめる。
「あなたたちの「神」によって。」
「何だって。」
ヨアヒムの瞳が侮辱された怒りに染まる。ジムゾンが最初に見せた反応に良く似ていた。
「神はそんな物は生み出さない。君たちは神に弓引いた罰で堕とされた。なるべくしてなったんだ!」
ヨアヒムの叫びにニコラスはクッと微かに口の端を引き上げて笑った。
「何がおかしい!」
「いや申し訳無い。あなたも騙されているというのに。」
「…騙されている?…僕が?」
今度はヨアヒムが笑う番だった。
「よくもそんな事を。この上僕までも神に反逆させようと言うんだな。」
ニコラスは帽子を荷袋に引っ掛けるとやれやれ、と肩をすくめた。


「聖パトリックの逸話はご存知ですね。」
「当然だ。古代ケルトの因習を滅ぼして教えをもたらした。」
ニコラスの問いかけにヨアヒムは苦も無く答える。ニコラスは更に問いを投げる。
「滅ぼされたものは。」
「土着の神と言う名の悪魔だ。幼い子どもを生贄に捧げさせていた。…その話が一体何の関係があるんだ。」
「まあまあ。そう急かないで下さい。」
次第に苛立ってきたヨアヒムを宥めてニコラスは苦笑した。

「宗教改革が起こって、この国も随分と住みにくくなったでしょう。」
ニコラスは腰に手を当てて天上を仰ぐ。
「ねえ、神父さん。」
「えっ。…ええ。」
突然話を振られてジムゾンは慌てて返事をした。
「けれどそれもこの国で贖宥状を最も活発に販売していたがゆえ。ローマの牝牛というあまり聞こえの良くない二つ名を囁かれていた土地は格好の市場だった。」
ジムゾンは思わずムッとした表情を浮かべる。
「最初に存在したのは崇高な物でも、やがて組織が生まれ秩序が生まれ形式が生まれる。形式は何れ年月の垢によって形骸化していく。」
「…ええ。」

これにはジムゾンも頷くしか無かった。全くそうでないと言い切れない事は身をもって知っていたからだ。
「やがて歪が生まれ腐敗が起こり、人々は次第に離れ始め秩序や体制は崩壊していく。」
ニコラスは唐突に質問を投げかけた。
「では、バラバラになった人の心を手っ取り早く纏めるのにはどうすればよいか解りますか?」
「教育を充実させる事だよ。道徳心を養い、教理を教える。」
と答えたのはヨアヒム。
「心荒んだ人々に奉仕し、教えを説きます。自ら教えを忠実に実践して模範を示すのです。」
ジムゾンはそう答えた。
「それでは手間がかかりますね。」
ニコラスは少し困ったような表情で首を傾げる。

「共通の敵を作る事だ。」
ぶっきらぼうに言い捨てたのはディーターだった。
「そのとおり!さすがは元傭兵ですね。」
待ってましたとばかりにニコラスが言う。
「さて先程の話に戻りましょう。教会がまだ権威を確立していない頃。その頃もまた今と同じように民を纏める必要があった。
なれば宗教の敵を作ること。そしてそれに打ち勝って見せる事は何よりの宣伝となる。」
「…ユダヤですか。」
ジムゾンは渋い顔で呟いた。
「それもそうですが、もっと魔的な物でなければならないのです。そう、夜な夜な人を喰らう化け物とか。」

張り詰めた空気の中ニコラスは語り続ける。
「教会は取引を持ちかけた。民族の祭祀を滅ぼさない代わりに人間の手でもどうにかなる魔物を生み出す術を教えろと。」
「馬鹿な!」
ヨアヒムは思わず叫んだ。ジムゾンもまた同じように愕然としている。
「かくして人狼は生み出されました。そして教会は秩序を作るために敵として彼らを追い込み殺していった。効果は絶大で、瞬く間に教会の教えは広まってゆきました。魔物に対抗する聖なるものであるとね。
ところが彼らは約束を違え古の神々を祀る為の儀式や祭具を次々に破壊した。“崇拝の野”にあった12体の像もまた打ち壊されました。それは契約を交わし術を教えた神のよりしろであり忠実なしもべでもあった。
当然裏切られた神々は怒り、制裁を加えました。そこで彼らは万聖節など教会の儀礼と言う形で祭祀を残し古の神々は来るべき時に滅びていった。
しかし、人狼は残った。」
ニコラスの顔に何時もの笑顔は無い。

「道具としての役目が終わると彼らの存在は忘れ去られました。けれど彼らはひっそりと生き続けていた。たとえ人間を喰らう宿命をおったとしても、たとえ人為的に生み出されたとしても、神の祝福あったればこそ生まれた生命なのです。必要の無い存在などではない。
十字軍時代に全盛を極めた教皇権でしたが頂点を極めたものが辿るのは衰退。次第に力は弱まり、新教を生み出してしまうに至った。そこで教会は異端審問と魔女狩りを強化してゆき…かつて作り上げた人狼の存在を思い出した。
人狼達は古の盟約に従い、ある一定の条件を満たすと閉鎖空間を作って人々を毎夜襲った。その条件とは閉鎖空間となりえる範囲内に占い師・霊能者・狩人そして教会の力の象徴となる共有者が存在している事。」
ニコラスは言葉を切ってディーターとジムゾンを見た。
「伝承にはこうありますね。“業集いし時地を断ちて”。業、とは人狼の人数がそろうという意味ではありません。役者が揃って舞台が整うという事です。権威を知らしめるための命がけの舞台がね。」

「嘘だ!僕はそんな事は信じない!」
「ヨアヒムさん…。」
悲痛な叫びをあげるヨアヒム。ジムゾンもまた信じられない事実に困惑した表情を浮かべている。
「信じる信じないはおまかせします。」
ニコラスはあくまでも冷たく言ってのけ、ヨアヒムは力を失って地に膝をついた。
「ですがご安心ください。罪ありしは神になろうとした「神」。神はあくまでも神です。」
ニコラスがかけた言葉に返答は無かった。押し込めたかのような嗚咽が冷たい風にかき消される。暫らくしてヨアヒムは擦れた声で呟いた。

「主よ、我に自由を。」



血まみれの三日月の申し子よ 負う宿命は血の宴
業集いし時地を断ちて 畏怖と嘆きに染むるべし
日にありては銀の腕 夜にありては血まみれの 力行き来て在りし者
心占むるが光なら 自ら命を絶たんとし
心占むるが闇ならば 情を忘れて鬼となる
汝が選ぶは何れの道か
されど忘るる事なかれ 凡そ全てに限りの在るを
限りありし生なればこそ 見える道もまたあろう
終焉の時を迎えたならば 安息の闇へ帰り行く
嘆くなかれ申し子よ 汝の先の道行きに
幸多からん事をただ願う


「これがあの伝承の全文です。」
語り終えてニコラスはディーターを見た。
「お前が直接その“血まみれの三日月”から聞いた言葉というわけだな。」
何気ないディーターの一言にニコラスは目を丸くした。
「いやはや。本当に察しの良い人だ。」
「しかし何故教会の儀礼に詳しい?しかも出会った当初に儀式を頼んだそうだな。お前にとっては憎い相手じゃないのか。」
「そんな感情は何百年と持ちません。」
ニコラスは苦笑した。
「確かに我らのあるじを…古の力ある存在をいいように使われたのは腹立たしかった。ですが遅かれ早かれ、時代にそぐわぬ力は滅びるさだめだったのです。あとは民の精神に残る…。
もっとも、それまでも穢されてしまったなら私はこんなに悠長に構えてはおりませんが。
それに教会との融和はもとより合意の上だったのです。大いなる存在が、時代がそう告げていた。ただ人狼の誕生という“ひずみ”が生まれてしまっただけで。」
「報復はとうに果たしたのだしな。」
「ええ。私にはまだ残された責務がありますけれど。終焉を見届けるという、ね。」
ニコラスは天を仰いだ。
「安息の闇へ帰りゆけるのは何時になることやら…。わかりませんが。」


「それではここでお別れします。」
そう言ってニコラスは荷袋を背負いなおした。
「行くのか。」
「ええ、これまでどおり一人で流れます。」
ディーターの問いにニコラスは笑い、帽子をかぶった。
「あなたはどこか行くあてがありますか。」
「無い。これまでも、これからも。」
「そうですか。」
と、枯れ枝を踏みしめる音が聞こえた。振り返るとそこには息を切らしたジムゾンの姿。肩からは修道士などがよく持っている雑のうがかけられていた。ジムゾンは襲撃が終わった後に暫らく教会に篭っていた。このまま村に留まる。もしくは審問に自らかかりに行くのではないかと思われたが、その心配は無かったようだ。
ニコラスはふっと笑ってディーターを見た。
「あなたが彼の力になってやってください。」
そうして再びジムゾンに向き直った。
「神父さん。あなたが救われるのは、自ら救い主を見出した時ですよ。」

帽子を深くかぶりなおしてニコラスは背を向ける。そしてゆっくりと山へ続く森へ向かって歩き始めた。その姿が森の闇に飲み込まれるとディーターもまた歩み始めた。墓地の先にある街道に向かって。
「襲撃もできない奴を養ってやるような余裕は無い。
一人で勝手に十字架背負って一人で勝手にのたれ死ね。」
すれちがいざまにディーターは冷たく言い放った。ジムゾンは俯いて地面を見つめ、目を閉じた。風の音だけが聞こえる。死者のうめきのような物悲しい。暗闇の中で荒縄が揺れる。幾つもの死を積み重ねて。夜毎の祈りは虚しく輪をすり抜けて闇の中に消えていく。泣き腫らした目で見つめた銀色の救い主は黙したまま死の影をたたえ、聖書は幾度となく地に落ちた。
私は何に縋ればいいのか。
この暗闇の中で一体何に縋って今まで生きてきたのか。
答えの出せない問いをジムゾンは何時までも続けていた。激情の口付けと同じ、永遠にも似た間を。


「罪深い人狼のままでも生きようとする気があるのなら。」
突然の声にジムゾンは目を開けて顔を上げる。目の前に立ち止まったディーターの背中が見えた。
「勝手に後からついて来い。」
振り向くことすらなくそう言うとディーターは再び歩き始めた。行くあてもない荒野への道。けれど確実に死と滅びへ向かう道。できることは幾つも無い。しかしそこでしかできない事もある。
ディーターの背が遠ざかる。幾つもの罪を背負いながら生きることを決して疑わない。
ああ、この人は。たった一人でも歩み続けるのだろう。これまでも、これからも。その身が崩れ落ちる日まで。

ジムゾンは駆け出していた。
教会に背を向けて振り返りもせず、十字路も飛び越えて。
一心にその背を追って。

やがてジムゾンが追いつくとディーターは一瞬だけ立ち止まり、物も言わず再び歩き始めた。
ジムゾンもまた黙ってそのあとを追って歩いた。
いつまでも、ずっと。


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