【赦しは天にあり、また地にあり】

慈悲深き処女マリア、御保護に寄り縋りて御助けを求め
敢えて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと
いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え
ああ、処女の中の処女なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来たり
罪人の身をもって、御前に嘆き奉る
ああ、御言葉の御母、我が祈りを軽んじ給わず
御憐れみをたれて、これを聴き給え
これを聴き容れ給え
アーメン



「ベルンハルトも大きくなったね。」
アロイスは感慨深げに呟くと数年ぶりに会った従姉妹を見た。
若草萌える庭園から臨む広場ではベルンハルトが従者相手に剣の調練の真っ最中だった。数年前の幼さは殆ど無く、精悍な少年に成長していた。
「ええ。あの人に似て逞しくなって。」
アンナは心底嬉しそうに笑う。普段の儚さなど微塵も感じさせない笑顔だった。
そのうちに調練も終り、ベルンハルト達は城内に引き上げていった。アロイスとアンナは庭園に残り初夏の庭の散策を続けた。
庭では薔薇が満開に咲き誇り芳香を漂わせている。薔薇はアンナが大好きな花だ。交際中にそれを知ったオスヴァルトは、それまで庭園など無かった城内にわざわざ庭園を作らせて薔薇を植えた。以来毎年この時期になると田舎の城も一時の華やぎを見せる。
「ところでジムゾンは?昼食から姿を見ていないんだが…。」
何気ないアロイスの問いにアンナは笑みをひそめた。
「部屋で本を読んでいるわ。」
『アンナ、何度も言うけれどあの子には罪は無いんだ。無論、お前自身にも。』
アロイスの囁きにアンナは返答しなかった。
「会っても良いかな。」
「ええ。でもあの子は読書を邪魔されるのを嫌がるの。知ってるでしょう?」
「行くだけ行ってみるよ。」

アロイスがジムゾンの部屋に辿り着くと扉がほんの少しだけ開いていた。
「ジムゾン、入るよ。」
軽く扉を叩いて開ける。しかし室内にジムゾンの姿は無く、床に数冊の本が落ちていた。テーブルの上に積み重ねていた分が落ちたようだ。残っている本を見ると自然に落ちる位置には無い。何かの弾みで落としたのだろうが、片付けもせず扉もきちんと閉めずに外へ出るなどジムゾンの性格からは考えられない。ジムゾンは恐らく奥の寝室に居る。
そこまでアロイスが考えた時寝室の扉が開き、慌てた様子でジムゾンが出てきた。ジムゾンは襟元の釦をとめ忘れていた。それは、几帳面なジムゾンらしからぬものだった。開いた襟元から覗く首筋には虫に刺されたような赤い跡形があった。
「すみません、散らかしていて。」
「何かあったのかい?」
ジムゾンは一瞬ビクッと身を震わせ、何事も無かったかのように屈み込んで本を片付け始める。
「な、何も。」
「その首筋は。」
ジムゾンは動きを止め、隠すように慌てて自分の襟元を引っつかんだ。だがそこに赤い跡形があったのは事実だ。アロイスは言いようの無い不安にかられる。本当に何でも無いのならわざわざ隠す必要などないのだから。
部屋に辿り着くまでにベルンハルトとすれ違った。方向的に考えて彼はジムゾンの部屋から出てきたと考えるのが妥当だ。考えられる答えは一つしかない。
「ここに来るまでにベルンハルトとすれ違った…。」
アロイスはジムゾンを見下ろしたまま呟いた。ジムゾンは力が抜けたように無言でぺたりと床に座り込んでしまう。
「彼に、襲われたのだね。」
問いかけに、ジムゾンは小さく一度だけ頷いた。

「神よ…。」
アロイスは嘆息と共に片手で顔を覆った。今日に限った話ではないだろう。何時からかは解らないが恐らく日常的にジムゾンは兄に虐待されている。
近親での姦通はよくある話ではあった。合意の上でも、無理やりでも。それは不思議な事に地位が高くなれば高くなるほど頻発する傾向にあった。神聖ローマ帝国皇帝の孫として生まれ、沢山の兄弟に囲まれて育ったアロイスは誰よりもよく知っていた。
修道士アロイス・ハイゼンベルク。本名はフリードリヒ・アロイス・フォン・ハプスブルクという。
アロイスには生まれたときから決められた婚約者がいた。それが、従姉妹のアンナだった。本当に従姉妹ならまだ良かった。だがアンナは世間体が悪いという事でバイエルンの養女になっただけの、アロイスの実の妹だった。こういった王家の因習はアロイスが世継ぎという地位も名誉も全てを捨てて修道士になった事の一因にもなっていた。
「誰かに相談は。」
ジムゾンは首を横には振らなかった。直後の言葉にアロイスは更に驚く事となった。
「お母様に。」

アロイスは崩れるように床へ跪いて驚愕の眼差しをジムゾンに向けた。
「アンナに?」
ジムゾンは無言で頷いた。
「なのに、何故?アンナは何もしてくれなかったのか?」
アンナもまた、そういった物を忌み嫌う者の一人だった。アロイスが行方不明になった事で解消されるかと思った婚約だったが、今度はアロイスの弟、つまりアンナの弟でもあるフェルディナントとの婚約に変わった。このまま運命を受け入れるしかないのかと思っていた矢先にアンナはオスヴァルトと出会い、反対を押し切って結婚した。
事あるごとにフェルディナントと既成事実を作らされそうになり、気が狂いそうだったとアンナは何時も言っていた。ならばジムゾンがされている事の非道さも解るはず。
また、そういう出来事が無いにしてもベルンハルトの行いは母親として許し難い行為のはずだ。それなのに事態が何も変わっていないとは、どういう事なのか。アロイスにはわけがわからなかった。
アロイスが思わずジムゾンの両肩を掴むと、ジムゾンは泣きながら囁いた。
『…お前が、人狼だから、と。』

お前が、人狼だから。

呪詛のような言葉が頭の中で何度も繰り返される。ジムゾンは囁きを続ける。
『人の命を糧とする罪に比べれば。…こんなものは、代償にもなりません。』
それはアロイスに告白するというより自分に更に刻みつかせるかのような囁きだった。
『私は剣ができるわけでもない。お兄様が言うように何のとりえもない、くだらない存在です。できる事なんて、せいぜいお兄様の慰みになる事でしかない…。
人狼としても同じです。狩りすら、お母様に頼りきりで一人ではできません。お母様は、私のせいで、何時までも襲撃しなければならない。それなのに、私は、私よりもきっと何十倍も人の為に何かできるような人の、何百倍も愛されるような人々の命を奪って、生きて…。
私なんて、生まれなければ―』
アロイスは、ジムゾンを抱きしめた。
ジムゾンがこれまでされてきた仕打ちを思うと涙が溢れて止まらなかった。どんなに辛かっただろう。力で兄に抗う事もできない。相談すれば兄が責められる。それでもどうしようもなくて耐えかねてアンナに相談したに違いない。そして限界まで打ちのめされた。
家族の中でたった一人の同じ人狼であり理解者であるはずの母はジムゾンを突き放した。そればかりかジムゾンの生すら否定するような言葉で責めた。
これまでの年月を耐えて生きてきた事。それだけが救いだとアロイスは思った。声にならない嗚咽をあげるジムゾンを抱き締めながら、アロイスはただそれを神に感謝していた。


「何故何もしてやらなかったんだ。」
城内の礼拝堂にアロイスの声が静かに響く。夕べの祈りもとっくに終り、礼拝堂にはアロイスとアンナ以外に誰も居ない。
「お前は知っているだろう。あれがどれだけ辛い事なのか。どれだけ非道で卑劣な行いなのかを。」
アロイスは悲しそうに眉根を寄せてアンナを見る。アンナは何も答えない。
『しかも、人狼だから為すがままになれだなんて。』
『呪われた血なのは事実よ。』
「あなたも何もしなかったわ。」
アンナは珍しく鋭い口調で言った。
「因習を嘆いただけで、修道院に逃げた。世継ぎとしての責任も全て捨てて。」
「私が家を出たのはそれだけじゃない。」
『人狼の私には家系を継ぐ事などできなかったからだ。』
『呪われた血だと認めるのね。』
『違う!何処かで血の宴に巻き込まれてしまえばそれは、ハプスブルクばかりでなく、この国全てを揺るがす事になるからだ。私が世継ぎでなければ揉み消す事もできるからまだいい。だが、王となってしまっては隠す事すらできないんだ。』
「言い訳よ。」

礼拝堂に再び静寂が訪れる。遠く風が奏でる湖面の囁きが聞こえるほどに。
「…たしかに、言い訳だ。」
アロイスが重い口を開いた。
「私は因習の根本をどうにかする事もできずに逃げた。家からも、お前からも。お前はオスヴァルトという良き夫に巡りあい、自分の力で道を拓いたが、私は子孫を残す道からすらも、逃げた。
けれど私が聖職の道を選んだのは、それが神のお導きだったからに過ぎない。」
『私は自分に流れる血を嘆いて孤独を選んだわけじゃないんだ。』
『お兄様には解るわけもないわ。同じ血が子どもに流れてしまったという事実を知った時に感じた罪深さなど。』
『たしかに私には解らない。だがジムゾンはお前が腹を痛めて産みはしたが、神の祝福があってこそ生まれた子だ。そしてお前も。必要か必要で無いかは、神がお決めになる事だ。』
「しかし私が何であっても、ジムゾンの悲しみを放置する言い訳にはならないだろう。」
アンナは何も言えなかった。

「オスヴァルトにこの事は言わない。そして、ベルンハルトへの追求もしない。」
『したところでジムゾンに辛い思いをさせてしまうだけだ。』
『お兄様も何もできないのね。』
『私には私なりの方法がある。』
「その代わり、ジムゾンを修道院へ入れる。」
「!」
アロイスの顔には揺ぎ無い思いが表れていた
「お前も知っているかもしれないが修道院にも修道院の因習がある。
ジムゾンはお前によく似ているから危険性は非常に高い。だがジムゾンはオスヴァルトの許可も必ず取って僧籍に入っても家族である事は消させない。そうすれば迂闊に手も出せないだろう。そして万一があろうと私の目の黒いうちはジムゾンには指一本触れさせない。」
「あの子はうんと言わない。」
「何が何でも説得する。」
そう言ってアロイスは踵を返した。後ろから、追いすがるようにアンナの声が聞こえた。
「私が居ないと何もできない子なのよ。」
『まだ狩りもできない半人前なのに。』
『狩りは私がやる。』
アロイスは足を止めて振り返った。
「ジムゾンは私が守る。」
心配しなくていい。それだけを言い残してアロイスは礼拝堂から出て行った。

翌日からアロイスはジムゾンの説得とオスヴァルトの説得に終始した。わけは知らずとも時折ジムゾンが元気を無くしている事を心配していたオスヴァルトは、環境を変えれば何か良くなるかもしれないと最終的には承諾した。
こうしてジムゾンはアロイスに導かれ聖職の道を歩む事となった。


Stabat mater dolorosa
Juxta crucem lacrymosa dum pendebat Filius.
Cujus animam gementem contristatam et dolentem pertransivit gladius.
O quam tristis et aflicta Fuit illa benedicta Mater unigeniti!
Quae moerebat er dolebat pia Mater, dum videbat nati poenas inclyti.
御子が十字架にかけられた時
御母は悲しみのあまり涙に暮れて十字架の傍らに佇んでおられた
その呻吟する心を、悲しみに満ち苦しみ悩む心を刃が突き刺した
ああ、御独り子のあの祝福された御母がどれほど悲しみ嘆かれたことか
輝かしい御子の苦しみを目の当たりにして、慈悲深い御母は悲しみに打ちひしがれた



ジムゾンがマリアラーハ修道院に来て四年が経とうとしていたある夜のこと。夜の祈りを終えてジムゾンが小さく歌を口ずさんでいると一陣の風が部屋に吹き込んだ。
「ジムゾンはその歌が好きだね。」
微笑んで言ったのはアロイスだった。ジムゾンははにかんだ表情を浮かべて俯いた。アロイスが何時ものように寝台の淵に腰掛けるとジムゾンも古い木の椅子を引っ張ってきて向かいに座った。
「母の葬儀は、どんなでしたか。」
ジムゾンは少し言い難そうに眉根を寄せる。
アンナが病死したとの報が届けられ、ジムゾンは院長に城へ戻るよう勧められた。戻ろうかどうしようか悩むジムゾンにアロイスはきっぱり戻るなと言った。また虐待を受ける可能性があったからだ。葬儀にはアロイスだけが参列し、今日の夕方に院へ戻ってきた。
「大きな葬儀だった。お父上のヴィルヘルム5世殿下をはじめ、バイエルンの親族がかなり来ていたよ。」
「そうですか…。」
「お前の父さんも兄さんも、城の者も皆悲しんでいた。遺体は綺麗なものだった。今にも動き出すんじゃないかと思えるくらいに…。」
さすがにアロイスも辛そうに言葉を切った。

家を出て隠れてひっそりと修道生活を送っていたアロイスがオスヴァルトに身の上をばらしてまでアンナの元へ赴いていたのには理由があった。それはアンナを救いたいがためだった。
幼い頃から自分の身の上を酷く嘆いていた妹の事が兄として心配だったのが大きな理由だった。しかし一方で、礼拝堂で責められたように実質アンナを見捨ててしまったという事への罪悪感もあった。
なんとか自分の生で悩む事に見切りをつけて、少しでも楽になってくれれば。その一心だった。城は閉鎖空間となり得ない場所にもあったのでアロイスは暇を見つけては足しげく城へ通い続けていた。
しかしジムゾンを引き取ってからは副院長という立場も加わり中々暇も出来ず、アンナが亡くなるまでの二年近くは城へ行く事ができなかった。
アンナが自殺を選んだのは私の所為ではないか。アンナはベルンハルトの存在を心の拠り所にしていたが、ジムゾンもまたそうだったのではないか。ジムゾンを救うためとはいえ取り上げてしまった事が絶望に拍車をかけたのではないか。もっとやさしい言葉をかけてやれば。無理に空の用事を作ってでも城へ赴いていれば。
後悔すればきりが無かった。
「私は何もできないままでした。」
まるで自分の心を代弁するかのようなかすれた声にアロイスは顔を上げる。
「今歌っていた歌が、まさにそれです。」
「歌?」
ジムゾンは黙ってこくりと頷いた。
「何時も何時も考えていました。母はこの歌の聖母とは違い、私が死んだら悲しむのではなく喜ぶのではないかと。」
膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、ジムゾンは俯いたままぽつぽつと涙を溢す。
「だから歌いながらこう思っていたのです。マリア様のような母だったら、どんなに良かっただろうって。」
「ジムゾン…。」
「私が母を疎むように、母も私を疎んでいた。…私から、何かしなければいけなかったのに、私は私の事ばかり考えていて、最後まで母を赦す事ができなかった…。」
アロイスは立ち上がり、泣いているジムゾンを抱き締めた。
「遅すぎるという事は無いよ。お前の心はきっとアンナにも届いている。赦せなかったからと自分を責めるのはやめなさい。
神は、これまでも、これからも。ずっとお赦し下さっているのだから。」

ジムゾンは何時の間にか泣き疲れて眠ってしまっていた。アロイスはジムゾンを抱き上げて寝台に寝かせ、汗で額に張り付いた前髪をそっとかきあげてやった。
私もアンナには何もしてやる事ができなかった。だからせめてこの子だけでも。人狼に生まれたというだけで何の罪も無いというのに。
けれどアロイスは痛感していた。自分ではジムゾンの支えにはなってやれないのだと。ジムゾンは実の甥で、どうしても自分はジムゾンより先に逝ってしまうだろう。何時までも一緒に居てやる事ができないし年齢の隔たりが共感を薄めてしまう。
願わくばお互いに尊重しあう友が現れんことを
最終的にはジムゾン一人で生きていかねばならないとしても。そういった支えとなる人間の一人でも彼の傍に現れて欲しい。そう願ってやまなかった。
「おやすみ。…良い夢を。」
眠っているジムゾンに呟くとアロイスは現れた時と同じようにふっと姿を消した。後には窓から差し込む月の光だけが、清かにジムゾンの寝顔を照らしていた。


おわり



母の日短編〜知らない人ばっかりだから人狼BBS二次創作って言っていいのか?!〜をお送りしました。
アロイスとママンのお話を一度つめてやってみたかったので自分では非常に満足しております。…独り善がりというやつです。


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